蝉・せみのなく

蝉のなく端山が原は過ぎぬれど こゑは身にそふ心地こそすれ

蝉・せみのなく

蝉のなく端山が原は過ぎぬれど こゑは身にそふ心地こそすれ
●現代語訳●
蝉の鳴いていた端山が原は通りすぎたのに、
あの声だけが、今でもこの身からはなれずより添っているかのように思われる

・・・

これも好きな歌です。
音(声)を身体に寄りそうものとして、感触的なところでとらえているところがいいと思います。
自然の音を身にまとっている。
ぱぱっと見ただけですが、身に添うというと、面影とかそんなのがよくある話で、 蝉の声が添っちゃったという歌はあまりないんじゃないかと思います。
さすが琵琶の名人!音に敏感!!(感涙)
と思うのは…私だけ!?

和歌における蝉の季節は夏から秋にかけてのようです。
経正朝臣集でのポジションも立秋の少し前。
他の人の歌を見ても、蝉の声に夏を感じる歌と秋を感じる歌、両方ありました。
おそらくひぐらしだったりすると涼しげだし、みんみんいうやつだと夏だなあ、 という感じなのじゃないかと勝手に推測するわけですが。

漫画ではその辺をあいまいにするために、鳴き声を書きませんでした。
最初のセリフも、蝉の声を聞くと夏だなあ、としていたのですが、 間をとってもうすぐ秋ってことにしました。嗚呼優柔不断!

  なく蝉のこゑも涼き夕暮に秋をかけたるもりの下露(二条院讃岐)

これだと秋で涼しげですね。

 日をさふるならのひろはに鳴蝉の声より晴る夕立の空(道助法親王)

こちらは夏の風情でしょうか。
それで問題は蝉にどういう感慨を覚えるかということなのですが、 ひとつは空蝉からの連想で、無常や儚さを覚えるというパターン。
そしてもうひとつは恋のこころ。

  恋すれはもゆる蛍も鳴蝉もわか身の外の物とやはみる(雅頼)

経正さまは相変わらず淡泊な詠みくちなので、なぜ声が身に添う心地がするのか、 またそれによってどういう感情がおこるのか、そのあたりを少し勝手に妄想させていただきました。
激しく恋に鳴く蝉のようにはなれない私!!
…そんな感じです。本当に勝手ですみません。

あんまりみんみんうるさくて耳に残ってただけだったりして…

(2008/09/21)

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