修理大夫経盛の子息、皇后宮の亮経正、幼少にては仁和寺の御室の御所に童形にて候われしかば、かゝる?劇の中にも、其御名残きッと思ひ出て、侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ馳参り、門前にて馬よりおり、申入られけるは、「一門運尽て、けふ既に帝都を罷出候。うき世に思ひのこす事とては、たゞ君の御名残ばかり也。八歳の時参りはじめ候て、十三で元服仕しまでは、あひいたはる事の候はぬ外は、あからさまにも御前を立さる事も候はざりしに、けふより後、西海千里の浪におもむいて、又いづれの日、いづれの時、帰り参るべしともおぼえぬこそ口惜く候へ。今一度御前へ参ッて君をも見まゐらせたう候へども、既に甲冑をよろひ、弓箭を帯し、あらぬさまなるよそほひに罷成ッて候へば、憚存候」とぞ申されける。御室、哀におぼしめし、「ただ其すがたを改めずして参れ」とこそ仰けれ。
経正、其日は紫地の錦の直垂に、萌黄の匂の鎧着て、長覆輪の太刀をはき、きりふの矢負ひ、滋藤の弓わきにはさみ、甲をば脱ぎたかひもにかけ、御前の御坪に畏る。御室、やがて御出あッて、御簾たかくあげさせ、「是へ、これへ」と召されければ、大床へこそ参られけれ。供に具せられたる藤兵衛有教を召す。赤地の錦の袋に入たる御琵琶持ッて参りたり。経正、是をとりついで、御前にさしおき申されけるは、「先年下しあづかッて候し青山、持たせ参ッて候。あまりに名残はをしう候へども、さしもの名物を田舎の塵になさん事、口惜う候。若不思議に運命ひらけて、又都へ立帰る事候はば、其時こそ、猶下しあづかり候はめ」と泣くゝ申されければ、御室哀におぼしめし、一首の御詠をあそばいてくだされけり。
あかずしてわかるゝ君が名残をばのちのかたみにつゝみてぞおく
経正御硯くだされて、
くれ竹のかけひの水はかはれどもなほすみあかぬみやの中かな
さていとま申て出られけるに、数輩の童形・出世者・坊官・侍僧に至るまで、経正の袂にすがり、袖をひかへて名残ををしみ、涙を流さぬはなかりけり。其中にも経正の幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申は、葉室大納言光頼卿の御子也。あまりに名残ををしみて、桂川のはたまでうちおくり、さてもあるべきならねば、それよりいとまこうて、泣ゝわかれ給ふに、法印こうぞ思ひつゞけ給ふ。
あはれなり老木わか木も山ざくらおくれさきだち花はのこらじ
経正の返事には、
旅ごろも夜なよな袖をかたしきておもへばわれはとほくゆきなん
さて巻いて持たせられたる赤旗、ざッとさしあげたり。あそこ、こゝにひかへて待奉る侍共、「あはや」とて馳あつまり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ、駒をはやめて、程なく行幸に追ッつき奉る。